「…兄さん」「…か。どうした?」ふと幼馴染のひとりで妹分のが片づけの手を止めて、躊躇いがちにこちらを振り返った。その瞳には明らかに、いつもとは違った動揺の色があって、ア−サ−はに気付かれないようにこっそりため息を吐くと、やんわりと笑みを浮かべて「、言いたいことがあるなら口にしてくれないと分からないこともあるって、いつも言ってるだろ」と話の先を促した。 「 は…はい… あの…この間の話 は 」 「 この間の話?…ああ、菊に会わせるっていう話か 」 「 はい… ほんとう、なんでしょうか… 」 「 ほんとうだ。アルフレッドや香港とも相談して決めた。不安か? 」 「ええと、」と言葉を濁らせただったが、適当な言い訳が思い浮かばなかったらしく諦めたように頷いた。は作業の手を休めると、ア−サ−と向き合うような姿勢でテ−ブル椅子に座った。これは本人にとっては重大なことなのだ、と知らしめるに十分なくらい分かりやすい行動に、ア−サ−は笑ってしまいそうになった。だけども、笑ってはいけない。いけないのだ。ここで笑うということはを傷つける行為に相当し、そしてそれは自分のプライドが許さなかった。は大事な話をするとき、どんな作業中であっても必ず手を休め、相手と向き合おうとするのだ。それは本人にとっては最大の努力であり長所であることを、理解している。だからこそ、笑ってはいけない。ほかのだれでもない、身内の自分が。 「 まえにも話ただろう?菊はほんとうに良いやつなんだ 」 「 そうですね… 分かってはいるんです。 兄さんとお友達になってくれた、方だって 」 「 それにな、。菊はだれより他人の痛みが分かるやつなんだ 」 「 アルフレッドさんにひどいことをされたから…? 」 「 …そうだな。この際だから否定はしない。もっともアルフレッドも認めたくないことだろうがな 」 「 どうして? 」 「 どうしてってそりゃあ… 大量虐殺に等しいんだからな。お前だってル−トの家のこと、知ってるだろう 」 「 …っ、はい 」 「 ほら、そんな泣きそうな顔をするな。オレまで滅入るだろう 」 「ごめ、なさ…兄さん…」しまいにはしゃくりあげ始めた妹を、ア−サ−は胸の痛む思いで見つめていた。自分はおそらく、誰よりも不器用だということを、こんなときに思い知らされる。アルフレッドや菊ならこんなとき、慰めのひとつやふたつかけられるだろうにと不器用な自分を悔やみながら、葛藤していた。( 兄さんって、呼ぶな )そう言えたら、どんなに楽になるだろう。もう何十回と繰り返したその葛藤に、半ば嫌気がさしていた。への摩訶不思議な感情に目覚めてしまってから、もう何度も、何度も。 「 ―――― 兄さん? 」 「 …あ?なんだ 」 「 ぼんやりして… どうされたんですか? お疲れなら、休まれたほうが 」 「 そうだな、もう休む。も、早く休めよ 」 「 はい。お休みなさい、ませ… 兄さん… 」 「…ああ…っ」こぶしを握りしめ、立ち上がる。上手に笑って、安心させてやることすら出来ない。もうすこし余裕があれば出来そうなものを、生憎いまは余裕なんてものは持ち合わせていなかった。タイミングが悪すぎる。去り際、握りしめていたこぶしをどうにか開いて、の頭を撫でてやることが精一杯だった。「兄さん…ありがとう。わたし、そんな兄さんが… だいすき…です…」頭を撫でてやると、は決まってそう話す。顔をほんのすこし赤く染めて、うつむきがちにほほ笑むの顔をまともに見ることさえ出来なくて、ア−サ−は頼りなく頷くと部屋を出た。情けない、と思う反面憎らしくも思う。の言う「だいすき」は家族としてのそれで、ひとりの男性に対してのそれではないことくらい、決して頭が良いとは言えないア−サ−でも容易に分かった。だっては自分以外の人間と会ったこともなければその人間に対して恋愛感情を抱いたこともない。いわゆる引きこもりというやつで、だからこそいちばん理解してくれそうな菊に会わせようと決めた。結果がどうであれ、にとって新しい発見につながることは間違いないと思ったからだ。 「 では…行ってまいります…兄さん 」 「 ああ。忘れ物はないか? 」 「 はい… あの、 」 「 だめだ、。何度も言っただろう?俺はいっしょには行けないんだ、お前ひとりで行かないと 」 「 意味がない、ですよね…分かってます。だけど、 」 「 … 」 出立の日、空港にたたずんでいたは震える手のひらをぎゅっと握りしめた。ほんとうは不安で不安で、どうしようもないんだろう。はじめてたったひとりで異国の地に旅立つのだ、無理もない。だけどもだめだ、自分がいっしょに行ったりしたら意味がない。ほんとうはいっしょについて行きたい気持ちを押し殺して、を見据えた。「早くしないと、菊にも迷惑がかかるだろう?」「は…い…」「大丈夫だ。何かあったらすぐ駆けつける」「はい…」ようやく安心したらしいはカ−トを握りしめ、一歩、踏み出した。その背中があまりにも頼りなくて、だから守りたくて、引き留めたくて。ア−サ−はほとんど無意識に、の背中を抱きしめていた。 「 っ、ア−サ−、さん…? 」 「 オレだってほんとうは、行ってほしくないんだからな…っ! 」 「 …はい 」 「 菊がお前のことをすきになったりしたらって… 気が気じゃないんだからな… 」 「 はい… え?兄さん…? 」 「 なんだ? 」 「 それはその… もちろん兄として…、ですよ、ね? 」 「 バッ…馬鹿野郎、当たり前だろ?ほら早くしろバカッ 」 「 バカッて…(二回も言った…) 引きとめたのは兄さん… 」 「 ぐだぐだ言ってないで、早く行け。ほんとうに時間ないぞっ 」 「はいはい…」相変わらず兄さんは良く分かんないなあ…なんて呟きながら、はようやく日本行きの飛行機に乗り込んだ。出来ることならいますぐにでも引き返したい気持ちでいっぱいだったが、機内から見える兄のことを思うと、それは許されないことだともうひとりの自分が否定する。不安と緊張の中思い起こされるのは、やはり兄の言葉だった。「あれは…どういう意味…でしょうか…?」コトンと首をかしげてみても、答えられる人間は地上の遥かかなた。はただただ兄の言ったことが気がかりで仕方なかった。 コバルトの焦燥を抱く |