「おはようございます」そんな穏やかな声を耳にして、境内の掃除をしていたは、また来たのかと胸中でつぶやきながらも、表情に笑顔を張り付けて「おはようございます、本田さん。きょうも参拝ですか?」と、ほんのちょっと嫌味を込めてそう話した。そうしたら本田さんは、特に困ったふうも見せず、いつもの穏やかな笑みを浮かべて「ええ、日課のようなものですから」と言った。なんだか、かちん!てくる。だけれど、わたしは神社の巫女。あの神社の巫女さんは愛想が悪いと評判を立てられるのも嫌なので、ニッコリと笑みを返す。 「…そうですか、ご苦労様です」 「ありがとうございます、さん。さんこそ、毎日お掃除大変そうですね」 「まあ、それも仕事ですからね…って、どうしてわたしの名前、」 が驚いたふうに目を見開くと、本田さんはまたニッコリとほほ笑んで「父に聞いたんです。それに、毎日お会いしているんですから、自然と覚えますよ」なんて話す。すっと、彼の真っ白な指先が神社の奥のほうに向けられる。は不本意ながらそのきれいな動作に見入ってしまっていたが、すぐに我に返り「ああ…なるほど、名札ですか」と少し落胆したように答えた。名前を覚えてもらえるように、と名札を貼ったのだけれど、それが仇になるなんて思ってもみなかった。本田菊、思っていたよりも観察力が鋭い ――― 侮れないひとだなあ、とは彼を見た。 「どうしたんですか?さん、そんなに凝視して…なにかついてます?」 「え?いえ、そういうわけではないんですけど…。それから名前で呼んでも良いなんて言った覚えはひとつもありませんが?」 「 ――― さんは、そんなにわたしのことがお嫌いなんですか?」 「え?どうしてそうなる…、」 「だってなんだか、さっきから…その、わたしと話していたくないというような顔をしているような気がしまして…」 どうやら、さすがに気付かれてしまったようだ。しかし、予想以上に本田さんの表情は暗い。それほどに、悲しいことなんだろうか ――― 彼を、傷つけてしまったのだろうか。そんなふうに思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。「あの…っ」いまさら弁解したところで、本田さんが許してくれるかなんてわからない。だけれど、謝らずにはいられなかった。本田さんのあんな顔を見たのははじめてだったから、かもしれないけれど ――― 参拝を終えて、くるりと境内をあとにする彼の背に、あわてて呼びかける。振り返りざま、袴についていた本田さんの鈴が、チリンと音を鳴らした。 「どうしました?あなたがわたしを呼びとめるなんて、珍しいこともあるものですね」 「傷つけてしまったなら…すみません。また、来てくださいますよね?」 「どうしてあなたがそんな顔をするんですか?わたしのほうまで寂しくなります…、もちろん、また来ますよ」 「本田さん…、はい!またのお越しを、お待ちしています」 「さん…はじめてわたしの名前、呼んでくださいましたね。ありがとうございます」 本田さんがそう言って、またに背を向ける。これが、最後のあいさつになるなんて夢にも思わずに ――― 。月日は流れ、半年後。境内の桜も散り、梅雨を迎えようとしていたころ。はお守り売り場のカウンタ−に頬杖をついて、どんよりとした曇り空を仰いでいた。「本田さん…どうしたんだろう。あれ以来、姿も見せないし…」忙しいのかなあ、なんて胸中でつぶやいて、はっとする。なにを言ってるんだわたしは!これじゃああのひとを待ちわびているみたいじゃないか。だけど、だけど ――― あの鈴の音は、まだ聞こえない。まだ、耳に届かない。 「本田さん…」 「呼びました?」 「え…、うわあっ本田さんっ!い、いきなりびっくりするじゃないですかっ」 「すみません、わたしが参拝に来てもさんは気付いていない様子でしたので」 驚かせようと思っていたんですが、と本田さんはくすくすと笑った。この笑顔を見ると、さっきまでのモヤモヤした気持ちが消えていくのが分かるのだから、不思議でならなかった。「このお守りをふたつください ――― きょうは、お客さん少ないみたいですね」本田さんはそう言って、小銭を取り出す。「雨が降りそうですからね、ご老人の方は特に、晴れの日にしか見えないことが多いんですよ ――― ハイ、どうぞ」はそう言って、小銭を受け取りお守りを手渡す。 「そうだったんですか…道理で。あっ、ひとつはあなたが持っていてください」 「 ――― え、」 「おや、ここまで言って気付かないなんて。って思っていたより鈍感なんですね、そこも可愛いんですけど」 「だ…っ、え?それ、ってどういう…」 「とんだ鈍感さんですね、あなたは。こうすれば分かりますか?」 本田さんはそう言ってふわりとほほ笑み、かばんが落ちるのも構わずにカウンタ−越しにの体を抱きとめた。こんなことが起こるなんて想像し得なかったは、ただただ驚くばかりだ。どくんどくん、本田さんの高鳴る鼓動が確かに聞こえる。「ここを毎日訪れていたのも、あなたに会いたかったからです。わたしがこのお守りを買ったのは、あなたに思いを告げる決意をしたからです。そして ――― 」の心臓は、もう限界だった。本田さんの息遣いが、すぐ近くで聞こえる。心臓に反して、ひどく落ち着いた呼吸 ――― 繰り返される一定のリズム。 「半年もの間逢わなかったのは ――― 父に、あなたとの婚約を認めてもらうためでした」 「婚約、て」 「あなたに、考える時間を与えるためでもあったんです。驚かせてしまって、すみません…」 「本田、さ、」 「菊、とお呼びください。あなたの答えを、聞かせてもらえませんか?」 菊さんは、少しだけと距離を置いて、真剣な面持ちで自分を見据えた。その深い漆黒の瞳が、の視線をとらえて離さない。そんなふうに見つめられたら ――― 拒絶、なんて出来ない。「菊さんのお誘い…、お受け、します」とぎれとぎれに紡がれる言葉に、菊さんは心底嬉しそうに笑みを浮かべて、またを抱きしめた。彼の肩越しに、雨の音が聞こえる ――― だけどわたしはもう、ひとりじゃないの。 神様はいないだろうけど |