「もう…65年ですか…」ぼんやりと晴れ渡る夏空を仰いだ日本は、誰にともなくそう呟いて、麦茶をすすった。心なしか、の耳に届いた日本の声は、どことなく悲しそうに聞こえた。だから気になって、「日本さん?どうかされたんですか?」と聞いてみたけれど ―― これがいけなかったのかもしれない。は、あとになって聞いたことを後悔した。きょうが日本にとってどんな日だったか、知らなかったと言えば許される、そんな簡単なことじゃないと言うことは分かっていた。心のどこかで分かっていた、はずなのに。 「きょうは、わたしの家に破壊兵器が投下されてからちょうど65年なんですよ」 「破壊兵器…」 兵器に関する文献を読んだことがあったから、それは知っていた。一瞬にして人体を消し去る、最も悪質な兵器 ―― それを最初に開発したのは、アメリカだった。だから必然的に、誰が落としたのかなんて聞かなくても、分かった。いまはみんな仲良くやっていけているから、誰のせいだとかどうしてだとか問い詰めることはしたくない。その気持ちは日本もおんなじなのだろう。そうでなければ、とっくの昔にそうしていたに違いない。そうしなかったのは ―― 日本が、優しかったから。ううん、優しいから。そのことはも、どの国のひとたちも分かっている事実で、また変えようのないことだと知っていた。だから、余計に何も言えなくなってしまう。どうしてこのひとなんだろう、って思ってしまう。 「わたしが…代わりになりたかったです」 「?」 「わたしが日本さんの代わりに…傷を受けたかった。日本さんは、こんなに、」 優しくて、素敵なのに。そう続けたいのに、うまく声にならない。いろいろな感情がのど元に押し寄せて、邪魔をしているからなんだと気づいた。「?な、泣いてるんですか?」日本の、ちょっと慌てたような声が聞こえて、はゆるゆると首を振った。「泣いてませ、ん」ただ、声にならないだけなんです。あふれそうな気持ちを、言葉に出来ないだけなんです。はそう胸中で呟いて、深呼吸をしながらゆっくりと顔を上げた。「すみません…大丈夫です」そう言って、日本が振舞ってくれたお茶をすする。冷たさがちょうど良く、のどを潤していく。あののどの重さも、いまはもう感じない。日本のほうを見てみると、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべて「そうですか、良かった」そう言った。 「そうだ、。これから少し時間ありますか?」 「え?はい…大丈夫ですけど?」 「でしたら、にぜひついてきてもらいたいところがあるんです」 「ついて来てもらいたいところ…?」 「はい。行ってみたらすぐに分かると思いますよ。支度をしたら、行きましょう」 日本はそう言って微笑み、ゆっくりと立ち上がった。はわずかに首をかしげつつも「…はい」と頷いて、立ち上がった。ちりんと言う風鈴の音が、涼やかに響いた。 客室で支度を済ませたは、早くに玄関のまえに立った。そこにまだ日本の姿はなく、はひとりおとなしく待つことにした。そうして手のひらがじんわりと汗ばむようになったころ、 ようやく日本が姿を現した。彼は、一般人が着るようなラフな格好に身を包んで、片手に大きな千羽鶴を抱えていた(日本がそれだと教えてくれた)。 「お待たせしてすみません。では、行きましょうか」 「はい!あの…それは…?」 「おはなしした千羽鶴ですよ。国民のみなさんや他国の方が作ってくださったんです」 「そうなんですか…。それをどうするんですか?」 「ふふ、目的地に着いたらすべて分かりますよ」 日本は意味深そうにそう言って、また穏やかに微笑んだ。はただわけが分からず、先ほどと同じように首をかしげた。それからふたりは電車を乗り継ぎ、一時間ほど時間をかけてようやく日本の言う「目的地」にたどり着いた。そこは広場のような場所で、涼しそうな噴水があり、人々が大勢集まっている。「何かの集会ですか?」がそんなふうに尋ねると、日本は「ええ、そのようなものです。みなさんお祈りに来てくださった方々ですよ」と説明してくれた。だからは「宗教…?」と呟いた。お祈り、と言ったらいちばんに宗教のようなものを連想したからそう言ったのだが、どうやら違うらしい(日本は笑って首を振っていた)。 「そんなふうに思われそうですが、実は違うんです。きょうは追悼式典が開かれているんですよ、戦争でなくなった方々の…ね」 「戦争…」 「ええ。、ひとつお願いがあるんです」 「なんですか?」 「この千羽鶴を、あの場所においてきてくれませんか」 そう言って指差したその先には、日本の手に持っているそれとおんなじものがいくつも山積みに、あるものはくいにつるされていた。 置くだけなら、大丈夫そうだと思ったは「分かりました」と言って日本から千羽鶴を受け取り、その場所に向かった。人々のざわめきやすすり泣く声、セミの鳴き声が混在して、やけに耳に障る。背後から足音が聞こえて、日本もついて来てくれているんだと思ったは、少しだけ安心した。そして千羽鶴を山の頂上に置き、手を合わせた。「ありがとうございます、」顔を上げて振り返ると、そこには少しだけ寂しそうに微笑んでいる日本の姿があって、は静かに首を振った。 「戦争は、まだ続いています」 「…え…?」 「被爆したら、人体は侵され、病を患います。そしてそれは一生続くんです…死ぬまで、一生」 「一生…だから戦争は続いている、と?」 「はい。被爆してもなお、生きながら得ているひとは…苦しみや痛みと戦い続けなければならないんです。死ぬまで、ずっと」 「病気だけじゃなくて…心の中の戦いもあるんですね…」 「はい。だから…同じ苦しみをいまを生きている人々に味あわせないためにも、あのような兵器は…悲劇は、二度とあってはならないんです」 堅く、堅く、心に誓うように、日本はそう言って青い青い空を仰いだ。鳥が自由に、弧を描いて飛んでいる。戦争のためにいまも戦っているひとたちには、それはないんだろう。仮にそれが得られるとしても、それはすべてを終えたときだ ―― 生涯を、終えたときだ。そんなふうに思ったら、日本の言った「戦争はいまも続いている」と言った言葉が、身近に感じられた。「戦争は…悲しいです。でも、それだけじゃないんですね…うまくは言えませんが」はそう呟いて、日本とおんなじように空を仰いだ。首が痛くなりそうだ、なんて思ったりもしたけれど、そんなことはどうでも良かった。あのままずっと下を向いていたら、みっともなく泣いていたかもしれないから ―― それで良かった。 「良かったです。きょう、あなたをここへ連れて来る時間が出来て」 「日本さん…。はい、わたしもここへ来ることが出来て良かったです。来ないままだったら…また違ったかもしれません」 「は、ほんとうに聡明な方ですね…権力者と言うにも頷けます」 「いえ、そんなことないです。わたしはまだまだ…未熟です。だから、ほんとうに良かったです」 「そう思うこともまた、すごいことなんですよ、」 そう言って日本は微笑み、「帰りましょうか」と言ってに手を差し出した。手をつなごう ―― そう言ってくれているんだと思ったは頷いて、その手をとった。神様、どうかお願いです。このひとの手を、これ以上傷つけないでください。このひとの手を、ずっとずっと握ったままでいさせてください。そしていつか、その手の輪が大きくなりますように。たったひとつの、お願いです。 百 年 戦 争 |