あれはまだ、が小さかったころ。すなわち、まだイギリスの管理下にあったころ。一度だけ、イタリアに行ったことがあった。 あれは確か ―― ローマが滅ぶほんの少しまえ。イギリスの親友だったと言う、父親に連れられて行ったのがきっかけだった。小さかったと言っても、 イタリアよりは少しお姉さんだったけれど、そんなことはどうでも良かった ―― と言うより、イタリアを見たらどうでも良くなった。

「始めまして、イタリアさま。わたしはイギリスの使いとしてここに来た、の父親だ。
 いろいろと、たいへんだったようだね。、お前もせがんで来たんだから、あいさつくらいしなさい」
「…はい。わたしはて言います。イギリスさんには猛反対されたんだけどどうしてもロ−マを見てみたくて…特別に許可をもらったの」
「こら、
「あっ、すみません…わたしったらとんだご無礼を」
?良いよ−気にしないで!イギリスに反対されたって言ってたけど大丈夫なの?」
「あ…はい。何とか話をつけましたので、大丈夫だと思いますよ」
「ふうん…?そうなんだ」
「ええ、苦労しましたがね。、わたしは仕事を済ませてくるから、大人しくしているんだぞ」
「はい。行ってらっしゃいませ、お父さま」

ぺこりと頭を下げて、父親の背中を見送る。完全に父親の姿が見えなくなったのを確かめてから、はふう、とため息を吐いた。 そんな様子を横から見ていたイタリアは、不思議そうな顔をして「どうしたの?疲れちゃった?」と尋ねてきた。ははっとして、首を振った。 「いいえ、そんなことはありません。それよりも、やっぱりイタリアの絵画は素晴らしいですね…!」廊下にずらりと並んだ絵画や彫刻を見上げ、 感嘆の声をもらすに、イタリアも嬉しそうに頷いた。「すごいでしょ!奥のほうにもっとたくさんあるよ!絵を見るための部屋もあるんだよ!」イタリアはそう言って声を張り上げた。

「へえ…すごい…!見せていただいても…?」
「うん!そのほうがおじいちゃんも喜ぶだろうし、僕も嬉しいよ−」
「…おじいさま?」
「うん。いまはお仕事でべつの部屋にいるけど、たまに絵を描いたりするんだよ」
「まあ…!それは素敵なご趣味をお持ちなんですね…!」
「えへへ。僕も少しだけど絵を描けるよ!でもまだまだ下手だから、
 もうちょっとうまくなったらおねえちゃんの似顔絵書いてあげるね−」
「イタリアさま…」

無邪気で疑うことを知らないイタリアを見つめ、はなんだか悲しい気持ちになった。そのころにはきっと、世界はもっと混乱しているかもしれない。 そうしたらきっと、イタリアに似顔絵を描いてもらうことも叶わなくなるだろう。黙ってしまったを心配に思ったのか、イタリアが顔をのぞかせて「?」と言った。は不意に我に返り、「すみません、イタリアさま。…はい、楽しみにしていますね」と首を振りながら笑顔をつくった。

…なんだか寂しそうだね」
「え…そんなふうに見えますか」
「うん。ごめんね、ぼくまだ絵が下手で…いま描いてあげられないからだよね?」
「え?…ふふっ、いいえ。そういう理由じゃないんです。あまり気にしないでください」
「そう…?」
「はい。イタリアさまって、可愛らしいだけじゃなくてお優しいんですね」
「そ、そんなことないよ!それからぼくのことは呼び捨てで良いから!敬語もいらないよっ」
「それはいけません。貴族の決まりごとのようなものですので…」
「ええ−」

(ええ−って…とっても可愛らしいんですけどね)駄目なものは駄目なんです、と胸中で呟いて、絵画を見上げる。 どの絵も端麗で美しく、見ているだけで絵の世界に吸い込まれそうなほどだった。自分にも、こんな才能があれば良いのに ―― そう、思いたくなる。 オ−ストリアの音楽の素晴らしさにも似て、自分には何もないんだと余計に気落ちしてしまう。いくら周囲に宥められようと、この芸術の素晴らしさには敵わない。

、もう十分楽しんだろう。帰国するぞ」
「え、もうですか…?」
「長居は無用だ。イタリアさまも、お元気で」
「あれ?もう帰っちゃうの?」
「申し訳ありません…時間が決められているもので。忘れたのか、
「あ…そうでした。すみません…」
「また、来てくれるよね?おじちゃんも、お姉ちゃんも!」
「…叶いますれば。戦争がなくなれば、それも容易でしょう」
「戦争がなくなったら…」
「ええ、そうです…それでは。行くぞ、

父親に腕を引かれ、なす術もなくイタリアの家を出て行かされる。ほんとうは、もっとあの絵を見ていたかったし、イタリアさまともいっしょにいたかった。 そんなことを思いながら肩を落としていると、背後からイタリアの「お姉ちゃん!またいっしょに絵を見ようね−!ぜったいだよ−!」と言う声が聞こえた。が振り返ると、手を振っているのイタリアの姿が見えた。小さい体で、一生懸命に手を振っているイタリアを見たら、少しだけ元気が出た気がした。 だからも負けじと手を振り上げて「はい!いつか必ず!」と言って手を振った。どんなに時間がかかっても ―― いつか、必ず。あなたに、会いに来ます。戦渦を乗り越えて、必ず。

面影の日
独立戦争、開戦まであと一年余