「潜入捜査…ですか」 「そのとおりだ。警視総監直々の命だ、聞けばきみは潜入捜査において抜群の力を発揮しているそうじゃないか」 「まぁ…、得意といえば得意ですが…よりにもよって特刑ですか?」 「だからだよ、及川君。きみはその特刑にいちばん精通している」 「その先は…分かっております。良いですよ、引き受けます。そのかわり」 「分かっている。必要物資はこちらで手配するし支援もする。きみは心置きなく任務をまっとうしてくれ」 「課長!いくらなんでも…危険すぎます!特刑の潜入調査だなんて!」 「蓮井警視、現場にだって危険はつきものだ。違うかい?」 「そ、れは…」 「大丈夫よ、蓮井君。それともあなたはそんなにわたしが信じられない?」 「明未…、分かった、よ」 「ゆめ…?」ぼんやりと顔を上げて、周囲を見回す。そうだ ―― ここは、特刑にある諜報課の一室で、五十嵐課長に頼まれて今度の裁判の内容をまとめておくように言われていたんだった。明未は腕時計を見つめて、昼休みが過ぎていることに気づく。「寝過ごすなんて…大失態だわ…」わずかに五分ほどすぎただけだが、滅多に寝過ごさない自分にとっては失態以外の何者でもなかった。 いまは幸い、五十嵐課長やその周囲のひとたちが留守にしてくれていたおかげで、お咎めを受けることはなかったが、それでも芽生えた喪失感が消えることはなかった。 「よりにもよってあのときの夢だなんて…嫌な予感しかしないじゃない…」 「な-に独り言言ってるんだ、及川?」 「うわ!五十嵐課長…お、お帰りなさい…」 「おう、ただいま!三上部長んとこに報告に行くぞ。ちょうど新人もいるだろうから、おまえも行くか?」 「え…良いんですか?」 「ああ。いまおまえにまとめてもらっている件も報告しておきたいし…ちょうど良いだろう」 「分かりました…ごいっしょさせていただきます」 「分かった。そういやあおまえ、御子柴とか式部とかには会ったことあったんだよな?」 書類を抱えながら、五十嵐課長はこちらを降り返ることなくそう言った。何故いまそんなことを聞くのか分からなかった明未は不思議そうに首をかしげながら「それが何か?」と尋ねてみた。 すると五十嵐課長はようやくこちらを向いてニィ、と笑い「いると思うぜ、天下の総隊長と副隊長もな」と言った。そこまで言われてようやく「ああ…なるほど」と明未も納得した。 そうして、ものの数分で例の部屋にたどり着くと、五十嵐課長は小さくため息を吐いて、ドアノブを引いた。 「失礼します」 「失礼します。…すみません、乱入してしまって」 「あ、明未ちゃん!久しぶり-!相変わらず知的で可愛いね!」 「ありがとうございます…?」 「なんで聞いてんだおまえ。おい、イガグリ!」 「五十嵐!」 「あ-あ、始まっちゃったよ、例の言い争いが…。 そうそう、明未ちゃん!この子藤堂羽沙希君!きょう僕らの第一部隊に配属になったんだ」 式部副隊長はそう言ってくいっと親指を後ろに向けた。そこにはもの静かそうな青年 ―― いや、少年が真っ直ぐにこちらを見据えて立っていた。 瞬間、背中がひやりとするような感覚を覚えた。まるで、感情も何もない、人形みたいな瞳をした少年だ。それが、彼への第一印象だった。 しばらくぼんやりしていた明未だったが、やがて我に帰ると「ぼんやりしてごめんなさい…はじめまして。わたし、五十嵐課長のもとでお手伝いしてます、及川明未です」と言って手を差し出した。 「本日、第一部隊に配属されました。藤堂羽沙希です」 「実はわたしもちょっとまえに諜報課に配属されたばかりなの。新人同士、がんばりましょう」 「はい、よろしくお願いします…」 冷たい手 ―― 握手してくれた、そのことは素直に嬉しかった。けれども、予想以上に冷たい手に、明未は一瞬眉間にしわを寄せてしまった。 確かに緊張はしているだろう。だけれど、それだけでこんなにも手が冷たいだなんて、明未にはとても信じがたかった。 それから五十嵐課長が三上部長たちに裁判の結果を報告しているところを何となく見つめた。不意に五十嵐課長が資料をこちらに差し出すのを見て、報告を終えたのだと思った明未は、 速やかに紙の束を受け取って、小脇に抱えた。三上部長の号令を最後に、第一部隊と五十嵐課長、明未の五人は部長の部屋を出た。 「ん-、なんか面倒くさそうだねぇ」 「だなぁ。イガグリ、てめ-なんか企んでんじゃねぇのか?」 「五十嵐だ、何度言えば分かる。それは現場に行けばはっきりするだろ…なぁ、及川」 「え?ええ…そうですね、分かると思います」 「おふたりは今回の事件、何か知ってるんですか?」 「詳細も犯人も、もちろん知ってます。けれどその先は、あなたたちの仕事だわ」 「僕たちの…?」 不意にまえのほうからチッ、という軽い舌打ちが聞こえ、それが御子柴隊長のものだと知れると、明未と五十嵐課長はお互いに顔を見合わせて肩をすくめた。明未は少しだけ五十嵐課長と歩幅をずらし、彼の少しまえを歩いている藤堂の隣に並んだ。「あせる必要はないと思うわ。あなたはまだ、子供なんだもの」呟くようにそう言って、 そっと微笑んだ。意味が分からないのか、藤堂は案の定頭に疑問符を浮かべながら首をかしげていたが、やがてはじめて会ったときと同じ無機質な表情で「分かりました」とだけ言ってまえを見据えた。明未はそんな彼の横顔を見ながら、けれども彼にも、誰にも聞こえないような声で「いつか…あなたのほんとうの笑顔が見られる日を願っています」と呟いた。 これはまだ、物語のほんの、序章の一部に過ぎない。 そして始まる物語 |