「藤堂…羽沙希、か」

カタカタ、と機械特有の電子音だけが部屋に響いている。ここは、諜報課の一室で、時刻は午前0時をすぎたころだ。 本来ならば残業などはしないのだけれど、別件もかねてその日のうちに片付かなかった仕事を済ませるために残っている、というところだ。 諜報課の仕事をしているふりをして、実はいま特刑の人事を調べている。なぜそんなことをしているのかというと、これが彼女 ―― に与えられた任務だからだ。 不意にコンコン、というドアのノックされる音がして、は慌てて人事のディスプレイを閉じ、現在まとめている資料の画面を映し出した。

「はい、どうぞ」

こんな時間に誰かしら、と疑問を抱きつつも、真夜中の客人を招き入れる。指先が時折腰のホルダ−に触れてしまうのは、警戒ゆえの癖のようなものだ。 静かに扉が開き、「夜分遅くにすみません。まだここにいると聞いていたので」そう言ったのは、つい先ほどまで人事資料を見ていた人物・藤堂羽沙希本人だった。 半ば驚きつつも、はこくりと頷いて「大丈夫よ、ちょうどひと息入れようと思っていたところだから」とうそを言って椅子を奥に引いた。 けれども藤堂の表情が晴れることはなく、いつもの無機質な表情のままで部屋に入り、「差し入れです」と言って缶珈琲とクッキ−をテ−ブルに添えてくれた。

「ありがとう、藤堂君。きみは?任務帰り?」
「…そんなところです」
「いまのはうそね。わたしにうそをつくなんて、良い度胸ね」
「え…?いやあの…すみません」
「良いのよ、分かるわ。眠れなかったんでしょう?わたしで良かったら、暇つぶしの相手になるわ」
さん…、ありがとう、ございます」

ふと表情が緩んだように思えて、も意外そうに目を見開いたけれど、やがて目を細めて「どういたしまして、藤堂君」と言って缶珈琲を開けた。 「でも、わたしなんかのところにいてもなんにもならないと思うけどね?差し入れ、ありがとう」二口ほど口に含んだところで、悪戯っぽく笑みを浮かべてそう言った。 藤堂はそんなに違和感を感じつつ「そんなことないです。あの、僕のほうこそわがまま言ってすみません」と言ってを見据えた。 彼女はというと、さっきまでの笑みを消して「藤堂君、謝りすぎよ。それ以上謝ると怒るわよ」と言ってわざと表情を険しくして見せた。 これにはさすがの藤堂も慌てたのか「わ、分かりました」とだけ言って満足そうに微笑んだを見た。は再びディスプレイに向き直り、キ−ボ−ドを打ち始めた。

さんは、眠くないんですか?」
「眠いわよ、だから珈琲がぶ飲みしてたんだけど、ぜんぜんだめね。珈琲ってほんとうに眠気が覚めるのかしら?」
「さぁ…僕は五十嵐さんやみんなみたいに珈琲は飲まないから分かりませんが…、
 やっぱり多少は効果があるんじゃないですか?珈琲には多少なりと麻薬が含まれているようですし」
「藤堂君…」
「なんですか?」
「きみ、堅いね。石頭って言われたことない?」
「え…、あると思います…」
「それじゃあ仕方ないわね、御子柴君をいらいらさせてしまっても」

意外なことを言われ「御子柴隊長が…?」と繰り返すように天下の総隊長の名前を呟く。は答えるでもなく説明するでもなく、ただぼんやりと微笑んで椅子を回転させた。 ただその笑みが肯定を示しているだろうということは、藤堂にも分かった。どうして自分が石頭だと御子柴隊長をいらいらさせてしまうのか、聞いてみたい気もするけれど、 そのあたりは式部副隊長にでも聞いてみれば何かしら分かるだろう。不意に、カチャカチャという音が聞こえて顔を上げてみると、 目のまえにはいつの間にかココアを手に持ったがやわらかい笑みを浮かべて、こちらを見ていた。何故だか、鼓動が少し早く感じる。

「眠れないときは、ココアを飲むと落ち着くわよ」
「…ありがとうございます」
「どういたしまして。少しはお相手できたかしら?」
「あ…はい。さんのおかげです」
「お礼を言うのはわたしのほうよ。良い息抜きが出来たわ、ほんとうにありがとう」
「え?いえ、もとはと言えば僕が…」
「藤堂君?いま謝ろうとしたでしょう」
「え…、はい。すみません…、あ」
「仕方ないわね、きょうはこれで大目にみてあげましょう」

藤堂が「何を、」と言うために口を開きかけるよりも早く、のデコピンが自分の額を赤くしていた。その部分だけが、じんじんと ―― けれども優しく痛んだ気がした。 「藤堂君は、もう少し力を抜いたほうが良いわ。見ているといつも緊張しているもの。緊張ってね、結構ストレスになったりするのよ?」はそう言って、自分の肩をあげたり下げたりした。 緊張をほぐすための運動なのだと、少しあとになって教えてくれた。ココアを飲み干して間もなく、腕時計を見た藤堂は午前1時を過ぎたことに気づき(一時間以上もいたなんて、驚きだ)、 いい加減仕事の邪魔にならないように立ち退こうと、カップを置いて立ち上がった。あいさつをしようとのそばまで寄ってみたけれど、反応がない。

さん?さん!…寝てる、のか?」

そうだ、と思えた。かすかに、肩が上下している。定期的に聞こえる穏やかなリズムが、その事実を物語っていた。 あたりを見回してみても、毛布らしいものはなく、藤堂は仕方ない、とため息を吐いて、自分が持ってきておいたコ−トをの肩にかけておいた。 「ありがとうございました、さん。仕事、がんばってください」聞こえているかも分からないが、藤堂はそう言って部屋を出た。 部屋の外には誰もいないのに ―― 不思議だった。振り返れば、何故だか優しい気持ちになれた。このときはまだ、気づいていなかったんだ。自分が、彼女に惹かれているんだっていうことに。

このおもいの名前