「それではこれより、第27回ジュニアピアノコンク−ルを開催いたします」
いすの角で頬杖をつきながら、ぼんやりと講堂内に流れるアナウンスに耳を傾ける。きっといまごろは、順番どおりに奏者が演奏しているに違いない。
アレンが腰掛けたままぼうっとそんなことを考えていると、クラスメイトのひとりが「アレン、アレン!もうすぐラビが弾くよ」と声をかけてくれた。
アレンは「ああ、行くよ…」とだけ返事をし、重たい腰をあげた。きのうはなんだかんだ言って結局あのひとに助けられちゃったな…。
なんとなく夕べのことを思い出したアレンはぼんやりとそんなことを思った。あれから散々練習して、12小節目も何とか弾けるようになったし…。
ひと思案して、腕時計を見つめる。自分の出番は最後だ ―― それまで、40分ほどだが時間がある。がピアノを聴きたがっていたことを思い出し、仕方ない、と講堂を去った。
「−っ。、来てください!僕のピアノ聴かせてあげますよ!」
静まり返っている。普段ならすぐに「ほんとうですか?」なんていかにも嬉しそうな声を上げながらそう言うのに、きょうはそんな声すら聞こえない。
アレンはそんな様子を珍しく思いつつも、がよく枝に腰掛けていた桜の木のそばへやって来た。―― の桜が、ない?
不意に少し離れたところからひとの騒ぐ声が聞こえ、アレンは慌てて駆け寄るなり、大工らしい男性ひとりの襟元をつかんで、言った。
「すみません!ここの桜どうしたんですか?」
「わあっ、なんだなんだ?」
「ああ…あの桜?…切ったよ。なんでもこの学校の生徒数が減ってて、
経営が危ないとかで…土地を切り売りするから桜が邪魔なんだと。狂い咲きしてた一本が、とてもきれいだったんだけどね」
桜の木。木の枝に座った、彼女の背中。そんな、きれいな残像が脳裏に浮かんでは消えて、アレンはぎゅ、っと拳を握り締めた。
「なんだ…もういないのか。だから嫌いなんだ…幻想なんて」呟いたとたんに、心の中に空洞が生まれたような気がした。その隙間を、ひゅうと冷たい風が吹き抜ける。
夢、ねこふんじゃった。
手に入りそうなところで、何度も自分を裏切るから ―― いつも、ただほんの少し、あこがれてるだけなのに。
「最後は音楽学院初等部六年、アレン・ウォ−カ−くんです。曲は…パッヘルベル作曲、カノン」
湧き上がる歓声が、アナウンスが ―― いろいろな声や音が、ノイズのように聞こえる。…だめだ。指がまるで動かない。弾けない…また心が空っぽになってしまった。
やっぱり、先生に言って棄権しよう。そう思い、席を立とうと振り返る。不意に、自分のなまえとこれから弾く曲名「花音」の文字が目に飛び込んできた。
え…?カノンて、漢字だったんだ…あのひととおんなじ名前…。不意に、の「アレンくんに呼ばれたから」という台詞を思い出し、ああ言っていたのは自分と同じ名前の曲を、
アレンがあそこで弾いていたからだと思った。そしてそれは、ほんとうのことのように思えた。それ意外に、ぴんとくる理由を思いつけなかったから。アレンはピアノに向き直り、眼鏡を外した。
信じたら、きみの耳まで届くかな?優しき桜の精霊。漆黒の長い髪。大きな瞳。正直言うと最初はその可愛らしさに見とれてたんだ。
外見とは裏腹の悪戯な明るさや無邪気さに戸惑って、疎ましくも感じたよ ―― だけど、夜に出会ったきみはとても心地よくて。
奇麗事だと馬鹿にしてたロマンチックな言葉にも、切ないくらいにあこがれた。もう一度きみに会いたい…だけどうまくは言えないから音に乗せては風に流すよ。 ―― 。
「アレン・ウォ−カ−くん」
「…はい(誰…?)」
「すばらしい演奏だったよ。わたしはこの学校の理事を務める者だ。
娘がきみのファンでね、ぜひ会ってもらいたいんだ…良いかな?」
「え、あ…はい」
「病気がちで最近やっと元気になったんだよ」
理事に言われ、彼の後方を見つめる。そこにいたのは ―― 「…」だった。「ほんとうに現れた…」アレンは驚きを隠せず、淡々とそう言葉を続けた。はしばらく複雑そうに胸元に手を置いていたのだけれど、やがてその手を解いた。そして、突然涙をにじませたかと思うと、体の向きを変えて一目散に駆け出した。
「待ってください、!」アレンはを追いかけるため彼女にそう呼びかけたのだが、コンク−ル関係者に「アレン君!もうすぐ結果発表よ!」と呼び止められてしまった。
「どうでも良いですよ、そんなもの」
「そんなものって、あなた…」
「優勝はアレンですよ。たとえ俺でも辞退しますから。
悔しいな…アレンの心は、あんなにも生きてる音が出せるんだ…」
ひたすら、走った。を見失わないように、一生懸命走った。いま見失ってしまったら、ほんとうにもう二度と会えなくなってしまいそうな気がした。
「…、待ってください、!」言いながら、ようやく手の届く位置に来ると、アレンはの手首をつかんで「病気がちなんでしょう?走ったらだめじゃないですか」と言った。
するとは観念したのか、少しだけ肩を震わせて「ごめんなさい…桜の精霊なんてうそなの。ほんとうの名前は・、高校生…17歳です」と、白状するかのように言った。
「わたし、ずっと入院してて…やっと病気が治ったら出席日数足りなくて留年しちゃって…。
友達ともぎこちなくて…学校も家も嫌になって飛び出したの」
「もしかしてここに寝泊りしてたんですか?」
「うん…桜の咲かない時期、ここには誰も近づかないから…」
「死んだらどうするんですか、そんな体で!」
「それでも良いと思ったの。死んでも良いと思ったの…そしたらこの桜に宿る精霊になろうって」
「…」
だけど、ある日「カノン」が聞こえてきて ―― のぞいてみたら入院中、お父さんにもらった二年前のコンク−ルのビデオテ−プ。
予選落ちした男の子が見違えるほど上手に弾いてた ―― 。
「アレン君、あんなに上手になったのに、まだ足りないって悩んでて…。
すごいなって思う反面、現実逃避してる自分が恥ずかしくなっちゃった。アレン君とおんなじ世界で生きたい…!
だからもう桜の精霊はやめたの…。あなたを思っていても、良いですか…?」
話している間、の涙はとどまることを知らず、流れ続けていた。一息に言ってしまったあと、はようやく自分の涙を隠すかのように手のひらで顔を覆った。
アレンは「僕のピアノ、聴いたでしょう?僕が壇上で弾きたくなったのはねこふんじゃったじゃない…「カノン」なんです」と、優しく笑みを浮かべたままでそう言った。
「中等部からはここに来るよ。のそばにいたいんだ…そばにいてほしい」
僕の心を掻き立てる、きみだから。アレンはそう胸中で呟き、泣き止んだらしいを見た。はアレンの顔に自分の人差し指を近づけ「ねえ…もう一度言って」と優しく言った。
アレンは眼鏡を放り投げるように外して、静かに言った。
「 ―― すきだ」
僕は君のいる世界ならば愛せそうです