「地元の音楽学校か…コンク−ルやるのってこの講堂?」
「古いけど趣があって良いところじゃないか。…なっ、アレン!」
「…そうですね」

講堂を興味深そうに見回し、そう言う彼らを見つめ、アレンは肩に本を乗せるようにしてつぶやくようにそう言った。 それにしても ―― アレンには、ここにくる少しまえから気になっていたことがあった。

「…きみたちもずいぶん落ち着いているんですね。きみたちもコンク−ルに出るんでしょう?」

―― そのことだった。普通ならば、緊張して雰囲気を楽しむ余裕なんてないはずなのに、彼らの落ち着きようは半端じゃなかった。 まるで、自分たちには関係ないとでも言うかのような。よくよく考えてみれば、コンク−ルに出してもらえるだけでもめったにないチャンスなのに。 開き直っているのだろうか、彼らが言った言葉は、アレンが予想していたどの言葉とも違っていた。

「僕らなんか出たっておまけだよ。どうせ一位とるのはラビかアレンだろうし」
「そうそう。所詮天才にはかなわないって」

アレンは、自分の少しまえを歩く少年 ―― ラビを見つめ、こっそりとため息を吐いた。なるほど、そう言うことだったのか。 アレンは「良いよね、僕らなんか努力したって無駄だもん」「レベルが違うんだよ」など口々に言っている彼らの背に「僕、ちょっと散歩に行ってきますね」と言い、 ひとりふらりと裏庭に足を運んだ。やはり、11月というだけあって外の風はひやりとして冷たかったが、あの空気よりはだいぶんましだった。 アレンは誰もいないということを確かめると、目にかけていたメガネを外し、声を張り上げた。

「何が「僕らなんか努力したって無駄だもん」だ!
 あなたたちの努力が足らなないだけでしょう!才能の所為にするなよな、あほ−っ!」

意図して口から出た本音に詫びるでもなく、アレンはポケットから折りたたんだ楽譜を取り出しながら呼吸を整えた。腹立たしいのは、そのことだけではなかった。 「(だいたいなんなんだ、渡されたこのカノンて曲!ほかのひとは自由曲なのに、どうして僕だけ指定されなきゃならないんだ!)」 ―― 今回いちばんの苦悩は、それだ。

「あ−気に食わん!あ−じれんま!」

言いつつ、楽譜を片手に持ってきたキ−ボ−ドでその問題の楽曲「カノン」の練習を始める。不意に、先ほどの少年ふたりが言っていた「どうせ一位取るのはラビかアレンだろうし、 所詮天才にはかなわないって」という台詞が頭を過ぎり、練習の手を止めた。と言うよりは、自然と止まってしまった、のほうが正しいかもしれない。

「最初からかなわないって思ってるひとには、一生できませんよ」

そんな本音がまたぽつりと、口からついて出た。ラビは天才かもしれないけれど、自分は違う。現に二年まえのコンク−ル ―― ラビは優勝して、自分は予選すら通らなかった。 あれからひたすら練習して、やっとここまで来たんだ。ラビにはぜったいに負けたくない。アレンはそう、決意を新たにし、練習を再開しようとキ−ボ−ドに手を伸ばしかけた。 そんなとき、アレンの目のまえをひらりと桜の花びらが数枚舞い降り、はた、と思い立った。

「それにしても…この桜一本だけ、どうしてこんな満開なんだろう…?11月ですよ…?」
「季節を間違えて咲いているの…。狂い咲きって言うんですよ」

不意に頭上からそんな声が聞こえ、アレンは「えっ」と思い頭上を振り返った。誰 ―― ?振り返ってみると、そこには自分と同い年か少し年の離れた少女、が枝にちょこんと座って自分を見下ろしていた。 きれいな漆黒の長い髪。桜色の花に良く映える ―― 。思わず見とれていたらしいアレンは、彼女の「あなた…アレン・ウォ−カ−さんですね。わたしはこの桜に宿る精霊…と言います」と言う言葉に、ぴくりと反応した。

「(カノン?)」
「お願いです!あなたのピアノ…もう一度わたしに聞かせてください!」

静まり返った空気を不思議に思ったのか、と名乗った少女は「ん?」と首をかしげ、まえを見つめた。アレンはその隙に体を回転させ、に背を向けた。 「あ!アレンさん待ってください。あのっ、ピアノを…!」そう、しつこくねだってくるを振り返ることなく、アレンは呪文のように「見えない聞こえない、見えない聞こえない」と何度も繰り返した。 だいぶん歩いたためか、の「ええっ、遠まわしに拒絶ッ?」という言葉が、少し小さく聞こえる。…ったく、なんなんだあのひと。まだ何か言ってるし。 桜の精霊だって?馬鹿げてる。そんなのいるはずないじゃないか ―― そんなことより、練習しなきゃ。冗談に付き合ってるひまはないんだ。アレンはそう思い、音楽室の鍵を借りると、ひとり練習を始めた。ところが。

「アレンさん!」
「(うげ!)まだいらしたのですか…?」
「もちろんです!わたしとこの桜は一心同体!いつでもここにいます」

翌日になってあの場所を訪ねてみると ―― そこには先日の少女がおり、とても嬉しそうな笑顔を浮かべながら「嬉しい…来てくれたんですね」なんていうことを言い出した。 だからアレンは「あなたがここにいると覚えていたら来ませんでした。さよなら」と皮肉を込めてそう言い、くるりとに背を向けるようにした。はショックを受けたように、けれども手を伸ばして「ああっ、ぬか喜び!」などと遊び半分に言っている(いや、本人にはそのつもりはないかもしれないが、アレンにはそんなふうに聞こえた)あ−あ、また秘密特訓出来ないよ…。

「どうして僕のピアノ聴きたいんですか?」
「アレン君に呼ばれたから」

…苛々するこのひと!(語尾にハ−トマ−クまでつけて!)思っていても言わないが、それが正直なところだった。「ピアノを聴きたいから」とか「アレン君のピアノに感動したから」など純粋な気持ちかと思いきや、 よく意味の分からないことを言い出した。だから余計に苛々するわけなのだけれども、この少女は俗に言うKYなのだろうか、まったくもって話が通じていないようだ。 だいたいなんで桜の精霊が僕のなまえを知っているんですか。そう問いかけたくて仕方がないが、まともな答えを聞けそうにないのでやめておく。 まだ何か話があるのかと思えば、はアレンのキ−ボ−ドで猫ふんじゃった、なんかを弾いている。

「僕のピアノ勝手に触らないでくださいっ!
 それに、ネコふんじゃったは指使いが間違ってるからあまり弾かないほうが良いですよ」
「えっ、そうなの?じゃあ正しい弾き方教えてくださいっ」

堪忍袋の緒が切れた。神経がぶちっ、と言うのが聞こえそうなくらい我慢が限界を達し、アレンはメガネを外すと「てめ−、いい加減にしろ!俺は幻想とか精霊とか信じてないし、そんなもん大っ嫌いなんだよ!」と声を張り上げた。 アレンはふと我に帰り、が目を丸くしていることに気づくと、眼鏡をかけなおして「僕の気持ち分かっていただけましたか?」と聞き返した。 どんなに丁寧に言い直そうと、出てしまった本音と言葉遣いの悪さに驚かなかったわけではないだろう。それも、会って間もない少女だ、驚きはひとしおだったに違いない。 案の定というかなんというか、は「キャラが違いすぎますアレン君!」と少しだけ声のト−ンを高くした。自分が思うに、相当の衝撃だったらしい。だから、正直に白状した。

「…眼鏡を外すと地が出てしまうんです。
 思ったことがそのまま口に出てしまうと言うか…その、言葉が汚くてすみません」
「ううん!とっても素敵!」
「は?(何処がだよ)」

幻滅されるのかと思いきや、は突拍子もないことを言い出した。素敵だって?何をどうやったらそんなふうに思考転換が出来るんだろう? アレンがそう不思議に思っていると、いつの間にかは立ち上がって「だって、眼鏡を外せばそれだけで素直になれるっていうことでしょう?とっても素敵!」とだけ言い残し、立ち去ってしまった。のその言葉には素直に驚いた。いままで変な癖だとばかり思っていたから、そんなふうに思うことも出来るんだと、教えられた。 アレンは不意に我に帰り、頭を抱えた ―― もう来るなって言うの忘れた…!まさに、後悔先に立たず。それからも、この「桜の精霊」とかいうやつはなぜだかアレンに付きまとってくるのだった。

「アレン、この四日間でかなりやつれたね。何かあったの?」
「別に…」

ある日の朝食の席で、クラスメイトにそんなことを言われ、アレンは少し面倒くさそうにそう言った。朝食を食べながらでも思い浮かぶのは、あのという少女のことだった。 ちくしょ−、あのひと俺のピアノ聞くまでてこでも譲らないつもりだな?課題曲の「カノン」のほうもあいつが邪魔をする所為で12小節目がいまだにうまく弾けないし…。 アレンがそう胸中でつぶやいていると、クラスメイトのひとりが血相を変えて食堂に入ってきた。

「おいみんな!ラビが講堂で弾いてるぞ!」

その一言で、先ほどまでとは違ったざわめきが、周囲に広がっていった。当然、みんなで講堂に向かうことになり、そこでラビの生演奏を聞いた。 彼の生演奏を聞くのは、ここに来てからははじめてのことだ。恐らくは以前より上達しているに違いない。アレンはそう思い、人だかりの後ろでラビの演奏を聞いていた。 「すごい上手…」「だってラビだもん」「お手本のCD聴いてるみたいだな…」クラスメイトたちのそんな言葉を聴きながら、アレンはあることに気づいた。

「カノン」? 僕と、おんなじ曲だ ―― 。



「は−、あいつやっぱ天才だな!」
「アレンはどうだった?この程度かって安心した?」
「いや…僕は…」

クラスメイトにそんなことを言われ、反論をしかけたアレンは言葉に詰まった。ほかのクラスメイトたちが言っていた「天才ふたりにはかなわないって」という言葉を思い出したからだ。 だめだ ―― こいつらには言えない。言えるわけが、ない。俺がいまだに弾けない12小節目 ―― あいつは、いとも簡単にこなしてた。それなのに…練習しなくちゃいけないのに。 どうして、あの場所へ行ってしまったんだろう。あの場所へ行けば頭が痛くなるだけなのに ―― ひょっとしたらあの子がこのもやもやした気持ちをどこかへやってくれるかもなんて思っていたんだろうか?…分からない。

「アレン君?どうしたのこんな遅くに…もう11時だよ?」
「…あなたの所為です」
「…え?」
「あなたが練習の邪魔ばかりするから!だから!だから12小説目がうまく弾けないんです!」
「アレン君…」

眼鏡をしたままでそんなことを言ってしまうなんて、思ってもみなかった。何を思ったのかは、アレンの耳から眼鏡を外した。 アレンは閉じていた目を開き「ごめん…こんなの、ただの八つ当たりだ…」と言って、を見た。は、穏やかに笑ってくれていた。 「ずっと夢だったんだ…世界一のピアニストになること…」アレンはといっしょに桜の木の枝に座りなおし、そう言った。つぶやくように、そう言った。

「このコンク−ルは二年前とは違う…。優勝したら、音大付属中学に推薦してもらえるんだ。
 夢に近づくチャンスなんだ。なのに…どうしたら良いんだ…」

アレンはいま、自分へ真剣に問いかけているはずなのに ―― 何故だろう。不意に、はいまどんな顔をしているだろうだなんてそんなことが頭を過ぎった。 だからと言っての表情を見てみようって思うことはなかったけれど、そんなふうに思っている自分がいることに、何故だか少し違和感を覚えた。 不意にの「ねえ…アレン君はどうしてピアニストになりたいって思ったの?」という落ち着いた声が聞こえ、アレンは思わず「えっ、」と声に出して彼女を見上げた。

「ねえ、ほんとうは…ねこふんじゃった、弾いちゃだめだよって言われたの、アレン君だったでしょう?」

に言われて、はっとした。こどものころ、はじめて両手で弾けた曲。指先から、魔法のようなメロディ。止められたメロディ。レンズの奥に閉じ込めた気持ち ―― 。

「正しい弾き方覚えたんだから、もう弾いても良いんだよ」

アレンはそう言って、瞳を眇めた。
胸の中の俺が笑うのをやめた。やめて、大声で叫んでる。ピアノを弾くのがすきなんだって。大好きなんだって。だからあの日、夢を見たんだって ―― 。

こんなにも近くに答えは存在していたのに