―――― ここには、なにもない。あるのはただ、真っ暗な暗闇と不安定にゆれている空間だけだ。
なにもない、なにもない。ただの道化のようになり果ててしまった思考を、身体を、ただ引きずるようにして生きているだけのにんげんだ。光一筋、差し込むだけでも違うのだろうけども、生憎そんなものが現れる兆しはない。あたしはふと思い立って、ずっと座ったままでいたベッドサイドから起き上がって、何日かぶりに玄関を開けた。肌に触れるのは木のぬくもり。耳に聞こえるのは鳥のさえずりとサラサラと優しく流れる風の音。どうやらきょうは快晴のようだ。


「 ――― だれだ、お前? 」
「 え…? 」


驚いて身体の向きを変えてみると、そこには何年ぶりかにみる「 霊 」の姿があった。残念ながらこの眼には、人以外の者しか映らないらしい ―――― と言うことを知ったのも、そんなに昔じゃない学生時代でのことだ。名前は確か黒埼一護。それがはじめてみた、死神の姿だった。声は聞いていたけども、まさかクラスメイトだっただなんてと驚いたのを、いまでも確かに覚えている。それ以来、たびたび霊、と言うか死神や虚と呼ばれる怪物を、その声を見たり聞いたりしていたのだけど、こうしてちゃんと会話をするのは実に久しぶりだった。きょうなんとなく外に出てみようなんて思ったのも、無意識に彼の霊圧を感じ取ったからなのかもしれない。どのみちこの気分が晴れるなら、なんだって良かった。


「 きみは…死神? 」
「 ああそうだ。良く、知っていたな 」
「 何年かまえにね、クラスメイトに聞いたの。お前は霊感が強いんだから気をつけろって言われて 」
「 ふうん…なるほどな。それで落ち着いていられるわけだ 」
「 なに?ひょっとして迎えに来てくれたの? 」
「 バ−ロ−、んなんじゃね−よ。気になったから様子を見に来てやったんだよ。ほら、お前の名は 」
「 ふふ、偉そうなんだね。 あたしは。面倒くさいからもうで良いよ死神さん 」
「 俺は日番谷。日番谷冬獅郎だ、死神さんはやめろ 」


日番谷冬獅郎、と名乗った死神はぶっきらぼうにそう言って腕組みをするとそっぽを向いてしまった。あたしはくすくすと笑みを浮かべたまま「ごめんごめん。態態ありがとう死神さん!これも、任務?」「だから俺は日番谷!あ?あ−まあそうだな。黒埼にお前の様子を聞いたら気になってよ」「そっか…ごめんね日番谷くん。忙しいんでしょ?」と言って玄関につながる階段にそっと腰を下ろした。風が程良く冷たい。季節はどうやら秋で、流石にもう半そでは無理だなと自嘲気味に笑ってみる。


「 まあヒマじゃあないが…話をするくらいの時間はある 」
「 …無理しなくて良いのに 」
「 あァ?どこをどうやったらそんなふうにみえんだよ 」
「 まあまあ、怒らない怒らない。余計しわが増えちゃうよ? 」
「 うるせぇ、余計な御世話だ。っとに…んなことしか言わね−んなら帰るぞ 」
「 冗談だってば−ごめんごめん日番谷。いまお茶でも入れてくるから 」
「 あ−じゃあお前そこに座ってろ、オレが入れてきてやっから 」
「 え?でも客人にそんなことさせられないよ−、日番谷くんこそここにいて!あっ、黙って帰っちゃだめだよ 」
「 ガキか俺は。安心しろ、んなことしね−よ 」


「見た目からしても十分子どもですよ」と言いかけた言葉を飲み込んで、あたしはゆっくり立ち上がるとキッチンに立って湯呑にお茶を注いでトレイの上におせんべいなどのお菓子を乗せてもと来た道を歩き始めた。だが困ったことに、両手は塞がってしまっている。どうしてこのような事態を想像しなかったのか、自分の短慮さが悔やまれる。しばらく固まったままでいるとキィッと扉の開く音がして、あたしは驚いてひっくり返りそうになった。「おっと」そんな声とともに背中にかすかなぬくもりを感じたは、驚きのあまりに言葉を失ってしまった。


「 ―――― おい、大丈夫か?…? 」
「 あっ…ごめん、吃驚しちゃって。大丈夫大丈夫、ありがとう…助かったよ 」
「 だからオレがやったほうが良かったんだよ… 見えね−癖に無理しやがって 」
「 だって…あっ 」
「 座れよ。また転んでも知らね−ぞ 」


「う…うん…」ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるようにしながら、あたしはやっと階段に座ってお茶をすすった。「でもね−、日番谷くんはそういうけど家の中のものはちゃんと分かるんだよっ」「そりゃそうかもしんね−けどよ−それにしたって大変なことに違いね−だろうが」「まあ大変は大変だけどね。でもそんなこと言ってたらなんにも出来ないしなんにも始まらないよ」「… まあ、そうだろうけど」「ねえねえ、また来てくれる?」「あ?あ−…」「日番谷、くん?」不意に言葉を濁らせた日番谷に、どうしてだか不安になってしまって、あたしは躊躇いがちに彼の名前を呼んだ。だけども日番谷くんは相変わらず顔をそむけたままで、半ば意固地になったあたしはむっとして彼の顔を掴むなり向き合わせるような形をつくった。「ちょっと!ちゃんと聞いて…る?」一瞬、何が起きたのかまったく理解が出来なかった。体中が熱を帯びているように熱い。おかしいな、季節はやっぱりまだ夏のままなんだろうかと錯覚してしまうほどに、熱い。だってそんな、死神に ―――― なにより男の人に抱きしめられるだなんて、想像出来るはずがない。


「 吃驚するなあもうっ!! 」
「 お前が喧しいのが悪いんだろうが 」
「 結局人の所為にする… 分かったよ、日番谷くんがそんなに言いたくないならあたしも言わない 」
「 珍しく聞きわけが良いじゃね−か 」
「 だってそうでもしないとほんとうに会いに来てくれなくなっちゃいそうなんだもん 」
「 はァ?誰も会いに来ないとは言ってないだろ?お前の頭は節穴か? 」
「 古い!それ古いよ日番谷くん!って言うことは…え?逢いに…来てくれるの? 」
「 しょうがね−からな。こっちに来たときは、会いに来てやらないこともない 」


仏頂面のまま日番谷くんはそう言って、だけども抱きしめた腕はそのままだった。「日番谷くん…?」「あ?」「あの、離さ…ないの?」「ああ悪い。なんか抱き心地が良かったからな」「ちょ…!」「おっと時間だ。じゃあな、元気にしてろよ」「え…もう行っちゃうの?」あたしが不安そうに日番谷を見上げていると、視線のやり場に困ったらしい彼はどことなく視線を泳がせて「だから!また来てやるって言っただろ?」と声を張り上げた。吃驚したはただ瞳をぱちくりさせて、やがてその瞳をやわらかく眇めて日番谷の手を包むように握りしめた。


「 ありがとう… 行ってらっしゃい 」
「 …ああ 」
「 無理、しないでね?そうじゃないとあたし… 」
「 …? 」
「 ううん、なんでもない。ね、最後にお願い聞いてくれる? 」
「 …なんだ 」
「 もし、あたしの命が尽きて行き場をなくしたら…日番谷くんが迎えに来てね 」
「 はァ?叶えられるかそんな願いっ 」
「 え−?どうして? 」


あたしがふくれっ面をしていると、日番谷はすこし困ったようにほほ笑んで、空を指差した。「お前は。ちゃんと最後まで生きて、ソウルソサエティより…ここより…もっときれいなところに行くんだ。分かったか?」「日番谷くん…」「もしオレんとこに来たときにゃ、全身全霊で拒絶してやるからな。覚悟しておけ」「…出来ない癖に」「あァ?なにか言ったか?」「なんでもないです−!でも時々は…会いに来てよね」「…気が向いたらな」「日番谷くんの無事を、祈ってるからね…いつでも」祈るようにそう言ってみれば、日番谷はなにも言わずにぽんぽんとあたしの頭をたたいて、黒い蝶といっしょに見慣れない門の向こうに姿を消してしまった。それからというもの、彼がここへ来ることは ―――― 遂になかった。



光の届かないこの場所は幸福さえも仄暗い