その日は、朝から土砂降りの雨が降り続いていた。それこそ滝壺に落ちていく滝のような―――現世ではバケツをひっくり返したかのような雨と言った具合に表現するらしいが、まさしくそんな表現が似合うほど、ひどい豪雨だった。もちろん梅雨はまだ先だし、季節外れの集中豪雨というわけでもない。単に、天気の気まぐれというやつだろう、と隊員の奴等が話していたのを、俺は何となくだけれども耳に挟んでいた。それぞれ手に古臭い傘をさして、「よし、そろそろ引き上げるか」という俺の号令に了解を示してくれる。 「―――隊長、わたしたちも戻りま…隊長?」 「んあ?どうした、松本」 「あの子…なんだか様子がおかしくないですか?ぼんやりしてるっていうか…」 「どいつだ?魂ばくか?」 「それは分かりませんが…、どうします?」 松本が、ほんのちょっとおもしろそうに笑みを浮かべて、くいっと少女のほうを指さす。ひとに指を向けるなと教わらなかったのか。いや、あの少女が ひと であるかどうか測りかねる手前、そうだと断言は出来ないが、とにかくいずれにしても失礼に値することは間違いないのだから、と日番谷はため息を吐いて羽織を翻した。 「プラスなら、魂葬して帰還する。松本、お前は先に戻って指揮を頼む」 「―――はあい、分かりましたあ。待ってますね、たいちょ−」 まるで酔っぱらいのような声でそう言い、ひらひらと手を振って地獄蝶をひきつれる松本を何となく見送りながら、日番谷はまたひとつ、盛大にため息を吐いた。それからゆっくりと、ゆっくりと、少女のほうへ歩み寄る。姿かたちは人間でも、いつ虚と化けるか分からない。怪しいものが、すべてその姿をしているとは限らないのだ。 「―――おいおまえ、そこでなにしてる」 「え…だれ…?」 「俺は、日番谷。おまえは?迷子なのか?帰り道が分からないのか」 「日番谷…? 分からない…なにも、なにも。わたしは、ここにいたっていうことだけしか知らない…」 ふるふるふる、と首を振る少女は、どうやらこちらで言う「幽霊」らしかった。いまはまだプラスの状態のようだが、時間の経過次第ではいつマイナスの状態になるかも分からない。油断出来ない緊張感が、任務とは違った緊張感が、日番谷の体を駆け巡る。不意に、少女が小さくくしゃみをした。見てみると全身ずぶ濡れで、心なしか少し震えているようにも思う。それに――― (服が…透けてんじゃねえか) 胸中でそうつぶやき、ふいっと視線をそらす。それほど雨に打たれていたということだが、そのままにしておくわけにもいかず、日番谷は自分の羽織っていた羽織を少女に着せてやった。そして、自分の傘に少女を入れてやる。雨の音が、妙に煩わしく聞こえる。 「ほら、とりあえずこれを着ろ。 …風邪引くぞ」 「…ありが、とう―――日番谷くん」 少女が、一瞬だけれどふんわりとほほ笑んだ。その笑みがなんだかすごく懐かしくて、心が震えた。心の、奥の奥のほうが震えた。震えて、波紋を描いていくのが、自覚するよりも明白に分かった。何を動揺しているんだ、俺は―――たった、これくらいのことで。ぶんぶんと首を振ってまた少女を見下ろすと、不安そうな瞳が視界に広がった。そのきれいな―――いまにも吸い込まれそうなほどきれいな漆黒の瞳に、また大きく心臓が脈打つ。 「日番谷…くん?どうかしたの?」 「いや、なんでもねえ。少しばかり考え事を…なあ、おまえ名は?」 「名?」 「名前だよ。現世の連中でも、どんなやつにも、名はあんだろ。おまえの名は?」 「知らない…、思い出せない」 「記憶喪失か…」少女に聞こえないようにこっそりとつぶやいて、眉間のしわをもむ。厄介な拾い物をしたなあ、と胸中でつぶやきながら、周囲を見回す。電信柱に供えられた献花、くぼんだ電柱、破壊されたミラー、そしてまだ完全には清掃されていないらしい、ガラスの破片。これらの物証が、ここで起きた出来事のすべてを語りかけていた。そうして思い起こされる「事故」という言葉―――彼女は、巻き込まれたのだ。ハンドル操作を誤ったドライバ−による、交通事故に―――車とブロックに、挟まれるような形で。その生々しい光景を思い起こすと、日番谷は思わず目を覆いたくなるような衝動に駆られた。つまり彼女は、疑うことなく「霊体」そのもの。小さくため息を吐いた日番谷は、刀を取り出し少女に告げた。 「心配すんな、名なら俺がつけてやる」 「日番谷くん、が?」 「ああ。俺たちの住む世界にお前が来たとき、すぐに分かるように」 「日番谷くんの…世界…?」 「そうだ。俺がいる世界、なら怖くないだろ」 そう言って、ほんのちょっと笑ってみせると、しばらく考えていたらしい少女も、またあの笑みを浮かべて「うん!また、日番谷くんに、あいたい」なんて言うことを言い出した。思ってもみなかったことを言われたものだから、一瞬次の言葉に迷ってしまう。だけれどやがて我に返った日番谷は「っとわり。そうだな…お前の名前は。でどうだ?」と言いながら刀を振り上げる。 「…かあ…うん、良い名前だね。気に入った!」 「そっか、それなら良かった。じゃあ…また、”向こう”でな、」 「うん!絶対だよ、日番谷くん!また、会おうね ――― 」 最後まで言わせないように、素早く魂葬する。「絶対、か…」チン、という刀を鞘に戻す音がして、日番谷は傘を拾い上げた。気がつけば雨は止んでいて、雲が切れ始めていた。日番谷は傘をたたむなり「日番谷だ。魂葬を終えた、いまから戻る」と地獄蝶の向こうにいるであろう松本にそう告げた。「了解しました−!」松本の元気な声が聞こえて、日番谷は後頭部をかきむしった。相変わらず、元気な部下だ。日番谷は吐きかけたため息をのどの奥に押し込め、夜空を仰いだ。「あしたは、晴れそうだな…」つぶやいて、先刻の少女のことを思い起こす。”向こう”の世界でも、あの笑みを浮かべていることを祈るように、そっと瞳を閉じた。 だから、もうおやすみなさい |