寝言で告白





あんなにひやりと冷たかった風も、いまではうそのようにぽかぽかと暖かな陽気に変わっている。日番谷はほころび始めた桜の蕾を見上げ、ふとそんなふうに思った。 日番谷が業務中にそんなことを思うのは珍しいことで、それは自分自身がいちばんよく分かっているつもりだった。「…春の陽気にでもあてられたか」日番谷はぽつりと呟いて、 ふっと表情を緩ませた。春の日差しにはそんな力があるのか、と区切りをつけて、自分の詰所である十番隊に向かった。ばん、と扉を開いてみると、そこにいるはずの乱菊の姿がない。


「誰もいやしね−。 ったく、どこほっつき歩いてんだ松本は」


おおかたサボりだろうと予想していた日番谷は一歩足を進めて、ある異変に気がついた。誰もいないはずの詰所から、規則正しい寝息が聞こえるのだ。 日番谷は頭を抱えたくなる衝動に駆られた。この陽気だ、眠りたくなるのも分かるがけじめと言うものがないのか・と問いただしてみたくなる。 日番谷は寝息の主を確かめるべく、そっと音のするほうへ歩き始めた。その寝息の主がいたのは、この時間いちばん日差しが良くあたる場所だった。


「 ―――  …か、」


きれいに整った顔立ち。その端整な寝顔を見つめて、日番谷は起こすのを躊躇った。もう少し、この穏やかな寝顔を見つめていたい・と言う思いからだった。 最近、この少女とゆっくり話しをする機会も時間もなかったな・とこのごろの出来事を思い起こし、ほんの少し申し訳ない気持ちになる。いちばん大変なとき、 いちばんがんばってくれている。席官ではないものの、その行動力と判断力は上に立つに相応しいほどの能力を持っている。それなのにそうしようとしないのは、 自分の力を隊長のため、だいすきな隊員のために使いたいからだとずっとまえに話していたのを思い出した。ほんとうに、何事にも一生懸命な少女だと思っていた ――― それが、最初の異変だ。


「どうしたもんかな」


さて、と机上で頬杖をつく。いまは誰もいないから良いものの、いずれは乱菊やほかの隊員も戻ってくるだろう。よって、このまま起こさないわけには行かない。 仮にもいまは職務中だ、上官として厳しく接するのが摂理と言うものだ。だけれど ――― 自分はまだ、この少女を起こしたくはない。別段、何かを期待しているわけではないが、 なかなか見られない彼女の穏やかな表情を、みすみす見逃す手はなかった。「…って、なに考えてんだ俺は」はっと我に返って、ゆるゆると首を振る。不意にが身動きをして、日番谷は思わず距離を置いた。


「ん…、隊 長…」


名前を呼ばれて、素直に驚いた。恐る恐る近づいてみれば、やはりはまだ寝息を立てている。寝言か、と思い安堵する。それにしても夢の中で名前を呼ばれるとは ―― いったいどんな夢を見ているんだろうか。 まさか夢の中でも心配されているなんてことは思いたくないが、は類まれなる心配性だ。それは彼女自身、阿散井やほかの同期たちにもお墨付きをもらっているほどだ。日番谷もその話は雛森から聞いて知っていた。 日ごろの疲れも溜まっているのだろう、日番谷は小さくため息を吐くなり「きょうだけだからな」と言って自分の羽織をに着せ、自分も職務に戻ろうとに背を向けた ―― そのとき、だった。


「隊長…、すき…」


思わず耳を疑いたくなるような寝言が聞こえて、日番谷の心臓は一拍、すごい勢いで跳ね上がった。そろり、とを振り返ってみても、やはり先ほどとなんら状況は変わっていない。日番谷は思わずを起こしてその言葉の真意を尋ねたいと思ったが、ぐっと我慢する。起こさないと決めた手前、すぐにそれを覆すのは気が引けた。だからせめて、彼女が目覚めるまでの間。が起きたときのために、自分なりに彼女の言葉の意味を考えてみようと思ったのだ。乱菊にたずねる、という手も思い浮かんだが、珍しそうに見られるうえからかわれるのが関の山。 日番谷は大きく深呼吸して春の風を吸い込み、よし、と勇んでから自らの執務机に身を構えた。この場所からは、の寝顔が良く見えた。先ほどの言葉が気になってを見つめるたび、日番谷は気が散って仕事どころではなくなった。


「確信犯か…?」


そんなわけないと分かっていながらも、すやすやと心地良さそうに眠っているにそっと呟いてみる。もちろん、指定席からであるためその言葉がに届くことはない。むしろそれで良かった・と日番谷は笑みを浮かべた。 これも春の陽気のせいか、と思いたくなるほど、心の中はひどく穏やかだった。いずれにしても、が起きればすべて分かることだ。日番谷はそう思うことにして、ほころび始めた桜の花びらを見つめ、またひとつ口元を緩ませた。が起きる気配はいまだなく、乱菊たちが戻る気配もまだ、感じられない。とのこの穏やかな時間も、もうしばらく続きそうだ。