宇

        宙
     界


    隈
      の





   林

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(やわらかな青い記憶)


森の中枢には大きな水溜りがあって、その周りには宴を楽しんでいるのか朗らかに歌を歌う美しい花々が咲いている。見たことも無い青い色の葉をざわめかせた木々がその花に合わせてまた同じく歌うように大地を振動させ、水面はステップを踏むように軽やかな波紋を轟かせる。そんな歌声の充満する森の中をわたしは只ひたすらに走った。頬を掠める優しい父の指、そしてその子ども達の愛らしい遊戯等何の気にも留めず、ただただ何かに導かれるように誘引れて、走る、走る。恐れは無かった。
何も知らない。だけど、知っている。
徐々に光が見えてきて、不思議に思った。此処には太陽なんて無かった気がする。だけど、やはり、わたしは知らない。曖昧な思考に傀儡の如く動いていた足がぴたりと止まり、あと数歩で森を抜けるというのに最後の最後でわたしは瞳を揺るがした。此処を、この先を、行ってはいけない。だけどそれよりも早く光が瞬く間にわたしを包み込み、呆気なくその不安は消滅した。まるでその光に焼かれたのかのように、跡形も無く、死体だって出てきやしない。でもその代わりに、わたしは止めていた足を動かして森を抜けた。その頃にはもう歌声はひとつとして無くて、森は水中に居るような静寂に満ちていたけれどもわたしはそれに気付かず、焦がれるように其処へと向かった。森はすぐ後ろにある。だから、きっと、何も恐れることは無い。

其処には宇宙が広がっていた。繰り返す漣が、飛沫の一つ一つが、全て宇宙色。星の満ちる海。そこにはもう二度と知ることは無いだろう意思が在った。海の意思、それはきっと彼の意思だ。

「どうしてわたしなのかな。わたし知ってるよ?なのに、なんで?」
「俺が望んだから。」
「どうして?此処は違う。違うよ、ルーク。ああ、やっぱり馬鹿ね。」
「ばーか。馬鹿なのはお前だよ、。」

切り立った白い崖の上に小さな笑い声が響く。くすくすと、それはまるで全てが見えている少女のような笑い声で、だけど不快感は全く無かった。今のわたしを構成するものは、不快感等という弱々しいものではなくて、確実な形を持った歓喜と悲哀だけ。ただ、それだけだ。
ざあざあと未だにざわめく森を背に、静かに繰り返す宇宙色をした海を眼前に、そしてその海の手前に確かに存在するルークをじっと見つめて、想った。この世界は、知らないけれども、知っている。だけどこの世界のことを、この場所この時この瞬間のことを、わたしはきっとすぐに忘れてしまうだろう。それを彼は知っていてその上でこれを望んだというのなら、やはり何よりもの間違いだと、馬鹿なのはやっぱりお前だと、今すぐにでも口を開いて言ってやりたかった。だけど、ああ、ゆっくりと振り向いた彼の、ルークの顔が、それを言わせない。ずるいよ、という言葉は完成されずに世界を漂ったけれども、もうそれでいいと諦める。だって此処は、彼の世界。

「ルーク、ねえ、ルーク。」
「なんだよ。聞こえてるって。」
「この世界はちゃんと、」

あ、と言いかけて、不意に周りの時間が遅くなった。風も木々も花も草も漣も、彼とわたし以外のものは全て止まっているかのように遅くて、なんだか胸騒ぎがする。気が付けば、わたしの体はどんどん落ちていた。何でこんなにも突然、なんて憤りを感じる間もなくあの宇宙色の海へ吸い込まれるように、また、何かに導かれるように誘引されて、どんどん下へ下へと落下していく。すると白い崖の上からはらはらとあの歌う花がまるで餞別かのようにたくさん降り注ぎ、それが一片一片きらきらと光りだした。唖然と、呆ける様にそれを一心に眺めていたら、この花の命は美しいんだ、と彼の声が聞えた気がして、さっきまで立っていた崖の上を首を動かして眺めてみるけれども、もう随分と落ちたのか、それとももう見えなくなってしまったのか、彼は居なかった。
全ての答えと柔らかく優しい青色、ただそれだけを残して。

「この世界はちゃんと、貴方に優しいんだね?」

そして、周りの時間が元に戻る。どぼん、と激しい音を立てて宇宙に落ちたわたしは一瞬にして違う色に囲まれたけれども、あの柔らかく優しい青がまぶたの裏に焼き付いているから、深淵に向かうことをすんなりと受け入れた。

「じゃあ、さようなら、ルーク。」

森のざわめきを、花の歌声を、水面の踊りを、白い崖を、宇宙色の海を、そしてルークを、わたしは彼と同じようにゆっくりゆっくりと、手放していく。