レイナの唇 葉と葉の間から降り注ぐやわらかな木漏れ日の下にその姿は在った。 そういえば、甘い蜂蜜の色をしたあの瞳を生きてきた中で一番にうつくしいものだと思ったのは、他の何処でもない此処のこの大きな木の下ではなかっただろうかと、目の前の小さく優美な世界で息衝く存在を目にしながら人知れず記憶再生を行ってみるけれども、まるで脳が深い霧の蔽う森をさ迷い歩いているのかのようにその記憶が酷く薄ぼんやりとしていて、全くと言って良い程に思い出せない。だけどボクは何故かわからないがこの記憶はきれいに原型のまま思い出さなければならない気がして、忘れていてはいけない気がして、自然と視線をやや上方に向けながら必死に思い出そうと思案するけれども、そうすればする程その時の記憶が遠くへするりするりと逃げていき、自分でもよくわからないがそれが何故かとても恐ろしく感じてしまったので結局は曖昧のまま、きっと多分此処で間違いないだろうというとあれだけ考えたにしてはとても不確実な結果を仕方なしに今もなお森をさ迷っている脳へ掲げ、そうして今までの思惟を完全にぶっつりと打ち切った。 そもそも烈風のシンクであるこのボクに恐ろしいものなんて何一つ無い、あってはならないのだ。 この世の全ての命有るもの、この世の全ての形有るもの、憎悪は抱いても恐怖を抱いたことなんて今まで一度だって無かった。だからさっき感じたあの恐ろしさはきっと多分なにかの間違いなのだと、また不確実な結果にそれでも馬鹿みたいに満足しながらゆるりと視線を大きな木の根元へと向ける。 赤というよりは少しだけ色褪せているような色をした何の表記もないとてもシンプルな本を、万華鏡のようにきらきらと輝かせながら見つめているその瞳が、やはり何よりもうつくしいと、また思った。 「………なに読んでるの?」 「………本。」 「ふーん。ところで、どうやらボクは君を買い被り過ぎていたみたいだね。」 「………クイン・ルフェルドの”やわらかな青い記憶”。」 それっきり固く閉ざしてしまった口に小さく溜息を吐きながら、ボクはあのうつくしい瞳を視界に入れられるようにと彼女と相対する形で腰を静かに下ろした。 木陰に居るくせにうっすらと汗を掻いているのか前髪が額にひっついていて、それが彼女がどれだけの時間此処にいたのかを物語っている。その集中力には驚愕するよ、感服に値するね、と胸中で吐き捨てて、そしてまた小さく溜息を吐きながらボクはそれでも変わらずに光り輝いている瞳をちらりと眺めた。そうしても視線は決して絡み合わずに、彼女は本を、ボクはそんな本を眺める瞳を、と、どちらも一方通行であるけれども、例えそうじゃなくてかちりと合ったとしてもそれはそれで困るので、ボクは現状に満足しながら変わらずにあの瞳を眺め続けた。 「………ねえ、。ボクは甘いものが苦手なんだ。なのに、生まれて初めてうつくしいと好きになったものがある。」 「………うん。」 「それは、この世に二つしか存在しなくて。それでいて、欲しいけれども、奪うことはできないんだ。」 「………うん。」 「ねえちょっと、ちゃんと聞きなよ。」 「………うん。」 生返事しかしないに呆れてボクは喋ることを中断し、大人しくが本を読み終えるのを待とうとその場でごろりと仰向けになった。 ボクには、空は青く見えて、雲は白く見える。だけど、きっとにはこの空もただの青色には見えなくて、雲もどこか光り輝いて見えているのではないだろうか。の瞳は、いつだってボクとは同じだけれども違う景色を見ている。漠然とだけれど、そんな気がした。ボクはそれが羨ましいのか、妬ましいのか、それとも。 そこまで思案して、ボクは唐突に理解した。 ああそうか、さっき感じた恐ろしさ、あれは何かの間違いなんかじゃなくて、本当に恐ろしかったのだ。 蜂蜜色をしたあの瞳が今日と何一つ変わらずに光り輝いていたのを初めて見た時、この世で一番うつくしいと思ったその事実を、ボクは忘れてしまうことがこわかった。そのボクとは全く違う瞳を羨ましくなったのと同時に、とても好ましく思った事実を、ボクは忘れてしまうことがこわかった。 そしてその瞳の持ち主であるを、ボクは忘れてしまうのが何よりも、何よりもこわかった。 瞳も、の世界観も、の作り出す小さなうつくしい世界も、そしてそんな自身も、ボクは、記憶さえも失いたくないと恐れてしまうほどに、 「はい、それで何だっけさっきの話。」 「………この世で二つしかない飴が目の前にあるけれども、それは舐められないものなんだ。ならどうする?」 「飴なのに舐められないって実におかしな話だね。」 「そうだね、実におかしな話だ。」 「そうだなあ、わたしならそれを見ながら別の飴を舐める。そうしたらその飴を舐めてるみたいな素敵な錯覚に陥るでしょ?」 「………なるほどね。」 やっぱりの瞳はボクとは違う景色を見ているんだなと思いながらボクは仮面の下で少しだけ笑って、倒していた体をゆっくりと起こした。そうすると青かった視界は深い緑と幾つもの小さな光に変わり、そしてそれと同時にふわりと優しい風が吹く。此処から、母なる木が存在するこの場所から遥か遠い場所へと散り往こうとする青々とした葉と共に、さらさらと靡く彼女の艶やかな長い髪。そのゆらゆらと流れているゆったりとした時間の様が頭上に在る広大な空を流れる数多の白い雲と何処となく酷似していると心の隅で感じながら、ボクは先程のの言葉を何回も、何回も反復した。 その飴を見ながら、別の飴を舐める。らしいなんとも滑稽な答えだが、まあそれも悪くない。 「じゃあ、そうしようかな。」 仮面に手を伸ばして、そして現れたボクの顔に驚きを隠せないのだろうのアホ面がなんとも面白くて笑いを誘ったけれども、驚くのはまだまだだよとその驚くの顔に在る別の飴へとゆっくり、ゆっくり、 2008.08.20(for abyss project!) |